それは地続きに
ここ数日、嘘みたいな疫病や戦争の話ばかりで正直気が滅入り始めているところ、今朝は嘘みたいな晴れ間で、洗濯物を干しながら、着実に春が近づいているのを感じた。
歴史上の出来事は、私たちの暮らしの中においてはここから始まりここで終わり、のような明確な線引きはほぼないことをここ数日の出来事を見て考えていた。映画「この世界の片隅で」でも痛感したけれど、それは地続きにやってきて、気づいたらいつまにかそうなっている。政治家の大義名分としてではなく、歴史から、未来の私たちから「あの地点がこの一連の出来事の始まりだ」と振り返ってから理解できるわけで、その最中の日常を生きている人たちにとっては、それがどこから始まってどこで終わるのかなんて明確なラインはない、そんなことを考えていた日に、まるで"平和の祭典"の終わりを待っていたかのように、その明確らしいニュースは飛び込んできた。何のための祭典なんだよと言いたくなることばかりで、みんな賢い人たちは冷静に「大義名分」と「その実」を見分けられるのかもしれないけれど、私は全くそうではないし、誰かわかるように教えてほしいと思う。
その歴史上の出来事や社会情勢が、そこで生きる人たちの考えやライフスタイルに絶大な影響力を持ち続けているように、私たちの考え方もこれから大きく変わってしまうのだろうか。せめて私たちは少しでも進化していて、経験から学びを得ていて、二度と同じようなことは起こさないと思いたいし、だから歴史を学ぶことは本当に重要である。
こんなことを、激動の時代を生きた祖父母や曽祖父母たちと話したい、といつも考える。果たして彼らは、机上の空論で理想でしかないと笑うのだろうか。
日々、フラットかつシビアに世界と情報を見ている人こそ、コロナ禍の長期化と昨今の情勢を見るにつけ、そろそろ気が滅入ってくる時期かもしれない。「きっと大丈夫」なんて無責任なことは言えないし、ひとりではないと思いにくい日々だけれど、ひとつずつ生きる足がかりを見つけて行けるよう願っています。
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