学び続けること
- chiharuf
- 2020年6月16日
- 読了時間: 4分
東京は梅雨入り。
たまに夏日もありながらもなんともしっとりと過ごしやすく、梅雨はなかなか好きな季節でもあります。そして梅雨前からメキメキと頭角を現し始める紫陽花たちには、4月下旬頃からひっそりと着目しては「きてるきてる」(?)と毎年わくわくしてもいる。笑

ここ数年は自分にとって「学び続ける」ということがキーワードになっていて、それにはいくつかの理由や背景があるのだけれど、今は亡きおじいちゃんのことが大きいように思う。子どもが大きくなって、「なんで勉強しなきゃいけないの?」と聞かれたらこのあたりのことを話せたら良いなと思う。
私の父方の祖父は(母方の祖父はいなかったので、私にとっては唯一のおじいちゃん)、その時代の多くの人がそうであったように、九州の田舎で百姓の長男としての人生を、個としての自分を犠牲にしながら生き抜いた人だった。生まれてすぐ戦争があり、幼い頃から家族と離れて育ち(祖父の父は戦争に行き、長男として地元に祖父とともに残り母や兄弟とほとんど生き別れて育った。そして祖父の父は戦死した)、私の祖母である妻には大変恵まれて、子どもにも恵まれて、でもふとした瞬間にずっと小さい頃家族と過ごせなかったことを引きずっているように見えた。私は色々な事情で祖父と一緒に過ごす時間は多くはなかったけれど、自分では祖父に見た目も中身もどこか似ていると感じることが多いせいか、親近感を持っていたのだと思う。
そんな鹿児島の祖父は、私が東京の大学に受かったことをえらく喜んでくれていたようだった。もともと農家だったこともあって、親戚の中で大学に入った女性は私が初めてでもあった。私がいま大切にしている「教育は投資である」という考えも、思えば祖父が常々言っていた言葉だった。いつも鹿児島に帰ると、眼鏡をかけて熱心に新聞や本を読んでいる勤勉な祖父。でもたまに鹿児島に帰り私が運転するときは面白いぐらい急いでシートベルトを締めるのを、そんなに私の運転が怖いの?と笑ったのを覚えている。笑
2013年に突然亡くなるまえ最後に会った時、普段私には何も聞かない祖父が別れ際に「良い人はいるのか」と聞いたことが驚きだった。最後の別れになると思っていなかった私は、当時すでに夫と付き合っていたので「いるよ、大丈夫だよ」と答えた。そして最後に病室を出たあと、またひょこっと顔を出して驚いた祖父と目を合わせて笑い、それが最後になった。
遺品を整理していた時、私がお土産に渡した九州新幹線開業祝いのボールペンを大事に使っていてくれたことと、そのボールペンで日々、病室で日記を書いていたことも後から分かった。パラパラと見ていたら、とあるページにもう最後の方の乱れた字で「私は、自分に学がないことが最後まで悔やまれる」と。その時初めて私の中で祖父が亡くなった気がして、たくさん泣いた。そして自分の中で「学とは、教育とはなんだろう」との強烈な問いが芽生えた。なぜなら私にとってそれは人としての教養や生きる知恵であり、祖父は最低限の教育しか受けていなかったけれど、それを十分満たしていたから。
現在、学校で教える立場になって日々思うこと。
これは毎回授業の冒頭で学生にも伝えているのだけど、学びはあくまでも双方向の場であること(すなわち私がすべて解ではないこと)。教育出身者ではなく現役でプロジェクトを生み出しているからこそ投げかけられる視点があるのではないかということ、そして何歳になっても立場が変わっても、学び続け自分の世界をアップデートしていくことは大切であり不可避であるということ。その土台は祖父との記憶に大きく影響を受けていると感じる。そんなことを、先週からオンラインで新学期が始まった講義をしながら思った。
新米教師まだ2年目だけれど、教えることは想像していた以上に向いているし楽しいと感じる。その度に、どこかで祖父のことを思う。そしてもっと学び続けなければと思う。