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chiharuf

嵐の夜に

自分にしてはマメに続けていたこの投稿も、一年近くお休みしてしまった。この一年近く、それはもう色々あって、外の世界で(といっても自分ごとなんだけど)起きている、あまりにも色々な出来事が嵐のように、遠く過ぎ去るのを辛抱づよくじっと待っている、冬眠みたいな時間を過ごしていた。


それでも絶えずお腹は空くし、やらなければいけないことはたくさんあるし、大して立ち止まることもできずに日常の波に揉まれている感じだった。以前のように湧き出てきていた物思いは、その間全くどこかへ行ってしまったようで、それがある種、立ち止まっていたということなのかもしれない。


そしてあっという間に季節はめぐり、また我が家では家族の季節である夏がやってきた。もうないもの、新たに存在しているもの、そのひとつひとつを確かめながら過ごす初めての夏。刻一刻と過ぎ去る時間が、あらゆる物事を急速に過去にしてしまうようで耐え難くもあり、同時に流れていくからこそ生き続けていけるというのもある時間。


私の頭はいまだに冬眠から完全に抜け出してはいないのだけれど、少しずつこちらの投稿も再開していきたいと思う。


・時間とは何か

その間、色々な本を読んで面白かったのは「時間は存在するのか?その唯一の確認方法は老いなどの状況変化(だいぶ意訳)」という一文。時間や過去、未来の概念は、私たちが生きていく便宜上のものでもあり、必要以上に時間や過去などに振り回される必要もないのかも、と思うなど。


・さるすべりの花

私は一度も会ったことのない母方の曽祖父の生まれ変わりだと言われているのだけど(確か誕生日か命日が一緒)、その曽祖父が大切にしていた庭のさるすべりの木は、曽祖父が亡くなった途端に枯れてしまったという話を小さい頃に聞いたことがある。それ以来、さるすべりの花を見るにつけて、会ったこともない曽祖父のことを考える。そのほか空き地に生えているツユクサとかほとくい(メヒシバ)とか。一木一草が私たちの記憶の一部となり、また同じ姿を見せに会いにきてくれることがある。個としての存在が大きくなり過ぎてしまった私たち人間にも、そういう側面があると良いし、あるのではとたまに思う。そして7歳の時に見た世界の情景が、姿と形(そしてもちろん自分の立場など)を変えて、また現れることが最近よくある気がして、3年、30年、で何か螺旋状に大きな巡り合わせが起きているのを感じる。


・場数で磨かれるストーリーテリング力

最近夜寝る前に、息子が夫に何かお話して〜と頼むのだけど、お題と設定は息子が考えることにしている。これまで「かめちゃんがカーテンで遊ぶお話」「カバのアキくんのお風呂がお船になるお話」など面白い設定で、毎度驚かされるのだけど、夫も負けじとこれまでどこに隠していたかわからないストーリーテラーとしての力を発揮して、回を重ねるごとに精度が上がり始めている。企画プレゼン力と同じで、ストーリーテラーとしての力にも場数が大事なことを私は学んだ。現在、カバのアキくんは、お船となったお風呂で善福寺川を下って冒険していて、突如飛び込んできたゴキブリちゃんと一緒に旅を続けているところ。今夜はうさぎのウッピーのお城に潜入するらしい。私も楽しみ。



九州方面の皆さまは、台風が来ているのでくれぐれもお気をつけてください🙏

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