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セイダカアワダチソウの花

この時期に各地へ赴くと、地域ごとに稲の収穫が終わったり終わってなかったり、ハザ掛けされていたりいなかったりして、同じ時期でも地域ごとに全く異なるのを嬉しく眺めている。日本各地の農家さんは私たちの食卓だけではなく、日本の美しい風景をも守ってくれている。



・お米一粒

小学生の時、地理の授業で「鹿児島は火山灰でできたシラス大地なので稲作には向きません」と教わり、鹿児島のじいちゃんばあちゃんがお米も育てていたのでショックを受けたのを覚えている(笑)じいちゃんはよく新米の時期に小ぶりのお米を送ってくれた。いまと比べたら品質改良も進んでいなかっただろうし、たまにジャリっと砂が入っていたりしたんだけど、それはそれは美味しかったし、一粒も残さまいと幼心に思い食べていたので、今でもお米は一粒残らず食べてしまう。自然や農と自分が繋がっている感覚を、幼心に感じていたんだと思う。今月もたくさんお米を食べよう。


・セイダカアワダチソウの花

この時期のもうひとつの楽しみが、各地で空き地の片隅に誇らしげに咲き誇るセイダカアワダチソウの花。ミモザのような美しい黄色い花をつけているが、毎年思い出すことがある(ここにも書いたことがあると思う)。交通事故で息子さんを亡くしたとあるお母さんが、警察の捜査の不手際を訴える取材を小さい頃に見た。事故は夏だったのに現場写真にはセイダカアワダチソウが写っていること、不可解な点がたくさんあり真相がわからず嘆いていること、などを放送したものだった。夏に咲くはずもないセイダカアワダチソウの花が現場写真に写っていることが全ての証拠だった。内容もうろ覚えだし、番組も10年か20年か前のものだが、そのお母さんの無念がセイダカアワダチソウの花のイメージとともに私の心に生き続けてしまっている。毎年黄色い花を見るにつけ、あのお母さんの心に少しでも平穏が戻っていますようにとあてもなく願う。


・プロセスが最適解

たった5年しか経っていないのに、種を蒔いて大きく育ちゆくもの、どうしようもなく失ってしまったもの、新しく生まれたものの変化たちにただただ驚き、見つめることしかできない。そのとき一見正解に見えていたことやうまくいっていたことが、あとから見たら誤った選択肢であることもあるし、またその逆も。私たちはいつも壮大な宇宙の中の瞬きするような瞬間の中を生きていて、言語化はおろかその時々の最適解ですら到達することが難しいことが多々であると思い知らされる。


そして人生のゴールは、結果ではなくどこまでもプロセスであることも。結果はいつだってプロセスによって定義づけられ、変わり続ける。しかしプロセスはいつだってどうしようもない現実である。過去に取り残されそうなとき、自分を励ましてくれるのはいつだって絶賛プロセス進行中の自分であり、いまを思い切り生きていれば過去や未来に囚われることもない。それが常に最適解。

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