対岸と此岸、他者と自分
- chiharuf
- 2021年8月18日
- 読了時間: 2分
いま自分の視野や目に、見えていないものを見ようとすることはとても難しい。

先日友人と「学と情報と政治」は当然ながら密接に絡んでいるよねという話をしていた。
彼女も私も、割と地方の出身で、なかなか大変な家庭環境をお互いサバイブしてきた感じなのだけれど(そして女性ということもあり)、だからこそ見えている「学」の人生における重要性と、そこからいかに「情報へのアクセス」、ひいては自分たちの生活に直結するはずの「政治」に一市民として参画できるかどうか、というプロセスを身をもって体験したからこその視点でもある。私たちの親やその前の世代、特に女性にとってはそれは全く当然ではなかったということも含めて。
そういうふうに、以前は自分の視点から見えていなかったものがいま見えている経験をした人たちにとっては、もしかしたら「いま自分に見えているものだけが真実ではない」という当然で自明のことはより認識しやすいのかもしれないし、そうでない人には想像する以上に難しいのだろう。
あまりにも想像力が欠如した出来事が多い。
一方で、他国では自由と尊厳が奪われつつある。政権が変わった翌日、先生たちが女の子たちを集めてさよならを告げたらしい。新しい政権では女性は学ぶ権利がない。人権がないことと同義でもある。先生たちはどんな気持ちで大切な子どもたちに話をしたのだろう。
一見、それらは守られているように見える自国にとっても決して対岸の火事とは思えない。対岸と此岸、他者と自分が繋がっていることの想像力、実感を得られるかどうかを私たちはいま試されている。
そんなことを考えながら、いま自分にできることを模索し続けています。なかなか苦しい。
そして今日は対策を万全にして、とあるプロジェクトで子どもたちを取材します。子どもは未来、少しでも子どもたちが生き生きと暮らせる社会になれば良いと思う。
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